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 ただ単に、春と言えばよいのだろうか、人の五感を刺激する様々なことがらが溢れ、高貴な殿上人も市を歩く者も、浮かれた足取りを進める季節。桜も散り時を知り、花びらを風にのせている。
 その花を身にまとわせながら、通りを歩いていく男が一人。ふと立ち止まっては春の香を身に薫きしめるように、桜を愛でている。
 その姿は絵のようで、行き交う人は小声でこう噂するのだった。
「ああ、少将様は今日もどこの花を愛でられるのだろ」


「私の末の娘だ……初めてだったと思うのだが」
 風流なことがらと言えば帝から女房達まで、あちらこちらから声のかかる彼は、夕方に向かって蒸し暑いような空気が立ちこめる中、左大臣家の客となっていた。
 花の季節の終わりに、と左大臣から声がかかったのはつい昨日のことだった。
 会わせたい者もいる、と言葉を添えて。
 簾を上げ、庭を見渡す部屋には友雅と左大臣、そしていささか幼い感じのする少女が座っている。
「藤姫と呼ばれております……初めてお目にかかります」
 きれいに切りそろえられた髪を揺らしておじぎした少女は、まっすぐ友雅の目を見つめてくる。その視線に何やら気恥ずかしくなって微笑みを返した。
 一瞬遅れて少女は頬を染め、うつむいてしまった。
「このような幼い姫君がいるとは、存じませんでした」
「ふむ……母親の身分もあってな、あまり外に出していないのだ。友雅殿に知れると色々と恐ろしいものがあるしな」
 数多の花々を愛でる友雅を軽く揶揄して、館の主は笑った。
「たまには咲き初めもよいだろう」
 そう言って、さらに友雅に杯をすすめる。
 霞がかった春の夕暮れは、そっと花を散らしてゆく。



 多少の酔いを瞳に浮かべながら、友雅は杯を置いた。
 帝が最近凝っておられるという大陸の細密な絵画の話し、陰陽寮の出色たる新人の話しなどを肴に、話し込むでもなくゆっくりとした時が過ぎていた。
 幼い藤姫も少々の酒に口をつけ、遠い殿上人や会うことの無い人々のことを興味深げに聞き入っている。
 薄暗くなりかけた室内に燈を入れようと、使用人がやってきたのをきっかけに、友雅は縁に立った。視界の端から上がって来た月が、霞を集めて、そっと光を放ち始めている。
「今宵は月が明るくなりそうです。燈は少なくてもいいでしょう。桜と月とは良い取り合わせではないですか」
「そうか。では、月が程よくなるまで、友雅殿の琵琶でもお聞かせ願いたい」
 やはりここでも楽を奏でなければ帰れないのか……と苦笑しつつ振り向いた友雅は、藤姫が瞳を輝かせているのに気がついた。
「嬉しそうなご様子ですが、どうなされたのかな」
 そばに歩み寄って尋ねると、藤姫は白い頬を軽く朱に染めて口を開いた。
「少将殿は琵琶の名手でいらっしゃるとお聞きしております。まさかその場にいられるなんて、皆に自慢出来ますわ」
 恐らく身の回りの世話をしている者達から聞いているのだろう。左大臣家での宴で、楽や舞を披露したのも一度や二度ではない。
 表情を緩めて微笑んだ友雅は、退出しようとしていた使用人を手招きする。
「口さがない女達から聞いたのでしょう。でも今夜は琵琶を手にするすもりはありません」
 一瞬でがっかりした表情になった藤姫の手を取ると、顔を上げるように促した。
「先程、姫は箏をなさると聞きましたから、琵琶ではなくて笛でお相手致しましょう」
 そして留めておいた使用人に、彼女が使っている箏と、笛を用意するように言う。幼い姫君は、今度は耳まで赤くなって慌てた様子だ。
「そ、そんな……私は母に少し手ほどきを受けたくらいで、少将殿にお相手頂けるようなものではありませんし……」
 くるくると表情を変えながら、父親である左大臣に、助けを求めるような視線を向けた。
「滅多に無い機会だよ、ぜひ合せてもらいなさい」
 父親に笑顔で応えられ、友雅に視線を戻すが、彼はふわりとした笑みを浮かべたまま、藤姫の手の甲をぽん、と軽く叩いた。
「大丈夫、好きなように奏でた時が、一番素晴らしいのですよ」
 ああっ、と小さく声を上げて、友雅の大きな掌の上で軽く手を握り締めると、困った顔をしてみせる。しかし、幼い割りに気丈な彼女は、覚悟を決めたようだった。

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